2025年08月01日
「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」寄稿記事③
若い頃から西洋の美術を熱心に研究していた竹久夢二は、海外に憧れ、何度か渡航を試みようとしましたがなかなか実現せず、実際に訪れたのは、1931(昭和6)年、47歳のときでした。
この旅を決意した夢二は旅費捻出のため各地で個展を重ねており、「立田姫(たつたひめ)」はその出品作の一つです。
タイトルの「立田姫」とは秋をつかさどる豊作の女神で、ここではあでやかな赤い衣を身にまとい、富士山を背景に描かれています。
後ろ姿を見せながら、顔だけ正面を向いているそのポーズはきわめてユニークなものですが、頭が小さくS字カーブを描くしなやかな身体のフォルムは、これまで手がけてきた理想的な美人の発展形であり、夢二自身「自分一生涯に於(お)けるしめくくりの女だ。ミス・ニッポンだよ」と語っているとおり、夢二式美人の集大成ともいえます。画賛は中国唐代の詩人、杜甫(とほ)の詩の一部が引用されており、不況下で生活苦にあえぐ農民への共感が詠みこまれています。
個展で稼いだ資金を元手にハワイ経由でサンフランシスコに降り立った夢二は、西海岸を中心に各地を転々としながら1年4カ月あまりをアメリカで過ごしています。
同地では現地で成功した日系人の支援を受けながら創作活動に打ち込み、中でもこれまで以上に意欲的に油彩画の制作に取り組んでいました。
「西海岸の裸婦」は、その代表的な作品です。ロサンゼルスで世話になった日系人の写真家、宮武東洋に夢二が贈り、長年、同家の居間に飾られていましたが、ご遺族の意向により近年里帰りを果たし、夢二郷土美術館が譲り受けたものです。
夢二の画業の中でもとりわけ異彩を放つこの作品は、金髪の外国人女性の裸婦を描いた唯一の油彩画です。憂いを含んだ印象的な目と表情、透き通るような白い肌や髪の毛の表現、デフォルメした身体に並行した紺、緑、黄土色のストライプのデザイン的な背景など、夢二の新しい画境への挑戦が見られます。
アメリカを後にした夢二はヨーロッパに渡り、1933(昭和8)年9月に帰国すると、長旅の疲れかその後体調を崩し、翌年1月に結核を発病します。海外渡航を経て、夢二の創作はさらなる展開が期待されたところですが、残念ながら病状は回復せず、同年9月、50歳の誕生日を目前にして帰らぬ人となりました。
(大分県立美術館上席主幹学芸員 吉田浩太郎)

