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「アートも食も」 県立美術館長の大分ビーナス計画 その九

寄稿 2016.11.12

関根直子「Untltled(16-220)」=2016年、45☓60㌢、鉛筆・アクリル絵の具・水彩紙(撮影者・柳場大)

関根直子「Untltled(16-220)」=2016年、45☓60㌢、鉛筆・アクリル絵の具・水彩紙(撮影者・柳場大)

前回は、地域連携の話で豊後高田市の長崎鼻に来春作品設置される戸田裕介さんと森貴也さん(共に大分アジア彫刻展大賞受賞者)を紹介した。今回は竹田の新市立図書館に展示する新作を制作中の鉛筆画の若手作家、関根直子さんについて話したい。
去年の県美術展・日洋彫工展の審査を担当し、今年も出品作を見た。他県に比べても活気に富んだ大分の美術の状況は、全国に誇れるものだと感心している。
美術大学で口を酸っぱくして学生に言うのは「絵描きが絵を描く目的は、絵とは何かという根源的な問いを描くのであって、それ以外の目的はない」ということだ。 
いかに構成が緊密で、色彩が多彩であっても、その絵から「絵とはそもそもなんぞや」という深い問い掛けが聞こえてこなければ、それは「布や紙にただ色を塗った、絵のようなもの=飾りもの」でしかない。工芸、書、詩、俳句、音楽だって皆同じである。
ウィーン生まれで20世紀きっての難解哲学者ウィトゲンシュタインの言葉だそうだが、「主体(私)は世界に属さない、その限界である」というのがある。私(たち)は一体全体、世界の縁の絶壁にぴったり張り付いているのか。そのほんのちょっと「内側に落ちそうに傾いているか」「外側に足が掛かっているか、いないのか」。この「世界と自分の関係の問題」こそを「絵描きは問いながら描いている」。
関根さんはその問題に鉛筆1本と消しゴムで果敢に挑んでいる作家だ。彼女の絵は息をのむほど美しい。だがそれは「無限に変化しながら彼女の手と私たちの目をのみ込み、包み込み、引き付け突き放しながら、どこへともなく誘っていく」。さらには「疾走し、絡み付き、動き回り、錯乱させる」絵画なのだ。
関根さんの新作を見るたびにその深度と強度を着実に推し進めていく仕事ぶりに驚嘆する。恐らくは自ら孤独にのたうちまわり苦しみながら探り、絶望的に待ちわび、死ぬような思いで「絞り出したかす」のような残骸として、初めて「絵画が現れ出る」。この前人未到の仕事ぶりには目を見張る。
「これこそが絵だ」「これこそが絵描きだ」と小さな体で静かに話す知的な彼女を誇りに思う。千葉県木更津市にある潮の香りのするような古ぼけた彼女の仕事場に初めて行ったのは10年以上前だ。
その探求は水墨画の洒脱(しゃだつ)で茫洋(ぼうよう)とした桃源郷をも思わせた。県立美術館の開館記念展第1弾「モダン百花繚乱(りょうらん)『大分世界美術館』」では、関根さんの鉛筆画を米国戦後抽象表現主義派の雄バーネット・ニューマンの大作と並べて、出会わせた。
3月に東京・上野の森美術館であった日本トップクラスの新進平面作家が競う「VOCA」展に、40歳という年齢制限ギリギリの関根さんをあえて推薦した。彼女はラスコーの洞窟画を思わせる、さらに深化したチャレンジで絵画の根源を問うた。
大分市の建築家塩塚隆生さんが設計した竹田市立図書館内でも新たなチャレンジをやる。何しろ豊後南画のリーダー田能村竹田の故郷である。
神話の再創造こそが伝統を守る唯一の手段である。過去をただありがたがって顕彰したり、駅前に歴史上の人物の銅像を建てたりするだけでは始まらない。竹田の南画の伝統や哀愁こそを、現代の関根さんが再創造するのである。


新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

 大分合同新聞 平成28年11月12日朝刊掲載

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