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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その四

寄稿 2013.08.19

 何年ぶりの猛暑の最中ですが、毎年、夾竹桃(きょうちくとう)のピンクや白の花々を見ると、過去の悲しい出来事、それも、戦争の犠牲になって亡くなった、多くの人々のことが思われます。夏はお盆とともに、喪の季節でもあります。

 備後(広島県東部)の尾道という小さな港町の生まれですが、中学高校を広島市に暮らし、広島市は第二の古里です。芸術が、人間の大きな苦しみ悲しみに、どのように働き掛けることができるのか、今回から続いて、2人の友人芸術家の話をしたいと思います。

 人は誰でも、けがややけど、手術などで、皮膚の表面に消えない傷痕をいくつか持っていますが、石内都というアーティストは、そういう傷を、ずっと、長いこと写真に撮ってきた芸術家です。

 彼女は、単に痛々しいもの、醜いもの、あるいは苦くて忘れたい思い出としてそういう傷を、見るのではなく、むしろ、かわいらしいもの、いとおしいもの、それぞれの人が傷を受けてから、それを癒やし、いたわりながら、必死に淡々と生きてきた、時間の慈しみそのものと見ています。

 10年以上前に、川崎市の岡本太郎美術館で「震災・記憶・芸術」という展覧会を企画したとき、彼女は初めて、お母さんの大きなやけどの傷を撮って出品してくれました。

 それは、壮麗な、身体と皮膚のカテドラル(聖堂)のように輝いていたことを記憶しています。
 その年に、お母さまは亡くなりましたが、その遺品類、モダンなシュミーズや口紅やら、くしを写真に撮った「マザーズ」は、ベネチア・ビエンナーレの日本館に出品されました。

 彼女は、遺品を撮ることによって、生前、うまく話せなかったというお母さんと、会話した、と言っています。
 その石内さんから「今、広島を撮っているのよ」と電話があったのが、いつのことだったでしょうか。僕にとって広島は、永遠に消えない、癒えない、言葉と想像を超えた、壮絶な苦しみと悲惨を体験し、生きた、そして今も生きている、多くの人々の、悲しみの町です。
 
 彼女が、その後、出版もし、また幾多の展覧会によって受賞をしたのは、被爆した方々、そのほとんどが亡くなったわけですが、その人々の生前着ておられた、あるいは、死の瞬間に着ておられた衣服を中心とした、遺品の数々でした。 
 平和記念資料館に残された、それらの遺品を、一つ一つ、学芸員と一緒に丁寧に広げ、じっくり見て観察し、「わあ、オシャレじゃない、かわいいわねえ」とため息をつく彼女。

 むろん、焼け焦げや、ちぎれ飛んで、残ってない部分もある。けれど、その絹や、綿の生地や染め具合、ボタンや縫製の面白さ、ひだの妙、そんなごく小さなディテールまで、見入って、魅入って、その遺品とそれを着ていた彼女たちと心を一つにして、そして、一気呵成にシャッターを切る石内さんがいました。

 「写真は、機械じゃないから、私の気持ちで、呼び寄せるんだよ」
 「一人一人の『ひろしま』を、よみがえらせ、奪い返したい」

 現在、東京の岩波ホールで上映中の、リンダ・ホーグランドによるドキュメンタリー映画「ひろしま 石内都・遺されたものたち」は、静かに、しかも雄弁に、石内さんの姿勢と、またその写真をバンクーバーでの展覧会で見た、さまざまな人々の体験や感動を語ります。

 いわく、「死の瞬間までは、素晴らしい、それぞれの、かけがいのない、生活があったんだ」
 いわく、「『ひろしま』は、ただ、恐ろしくて怖い、と思っていたが、もっと、身近に感じられた」

 自分の写真は、ヒロシマの過去を撮ったものではなく、今も生きている現在をよみがえらせたものだから、見る人は、自由に、好きなように、それぞれ違った、いろいろな見方、感じ方で、見てくれた方が良い、と言います。

 そこに、僕は芸術の真の自由と、そして「決して、何か固定のイメージを見る人に押しつけない」、真の寛容を受け取りました。

 彼女が、特別講義などで僕の学生たちや僕に語ってくれた言葉、また、彼女の作品を見た人の言葉にも同じようなものがあった気がするが、それらの中で、特別に印象に残っているのは、「『ひろしま』は、死んではいない、一人一人の人間の生命は、今もこの服の中で、生きている」という、いわば、奇跡的な発言でした。

 こうして、一人の写真家は、彼女自身の「ひろしま」を見いだし、それを黙って差し出すことによって、「一人一人」の「ひろしま」を再び、「よみがえらせ、奪い返した」のでした。 

新見隆(にいみ りゅう)
  武蔵野美術大学芸術文化学科教授
  大分県芸術文化スポーツ振興財団美術館開設担当理事

大分合同新聞 平成25年8月19日朝刊掲載