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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その十八

寄稿 2014.10.20

新見隆館長のドローイング作品

新見隆館長のドローイング作品

 すがすがしくも堂々たる姿を現した坂茂建築のOPAM(県立美術館)。もし一言でその特徴を言うなら「スッキリして都会的」あるいは「モダンな、りりしさ」だろうか。

 県立美術館でも話題になり議論にもなったのは、ミュージアムは自然の中にあるべきか、都市の真ん中にあるべきかというものだ。便不便の問題だけでなく、結論から言うと、今の立地が大大正解と思っている。

 誤解を恐れずに言うと、湯布院に初めて行った時に僕が真っ先に感じたのは「ああ、ここで大きな美術館を営むのは、ちょっと難しいだろうなあ」ということだ。それは湯布院そのものが自然景観が素晴らし過ぎて、そこに建てたらミュージアムがその自然景観の添え物になりかねないという危惧を感じたからだ。

 極端乱暴に言うと、自然こそは全ての芸術の母で、アートの母体は自然そのものだ。だから今やっている国東半島芸術祭も、国東という実に豊かな景観や自然に助けられ、初めて成立するものだ。作品にしても、逆にアーティストがその大きな力に拮抗するような迫力や深さを持っていないと、簡単に自然の力に取り込まれて埋もれてしまう。

 僕のミュージアムがそうそう簡単に湯布院の景観に埋もれてしまうとは思わないが、中身内容や企画の斬新さは、豊かな自然の中では激しく過激なものというより、やや緩やかで穏やかなもの、おとなしいもの(別の言い方だと、自然の豊かさに寄り添うもの)にならざるを得ないだろう。それが人間のさがというものだ。遠慮するからかもしれないが、誰しも親の前ではやはり、子供は本当の「過激な底力」は照れくさくて発揮できないものだ。

 僕は若いころから、都市型のミュージアムという箱ものの学芸員として徹底して教育を受け、鍛えられてきた。だからOPAMのような自然景観に影響されないニュートラルな場が最適な自分の働き場所だ。

 そして一番大切なことは、ミュージアムは「想像力」の場であるので、芸術の母たる自然を「ココロで感じる、あるいは自分のイメージでつくり上げる」場だということだ。だから本物の自然、草木や山川海が見たければ、いくらでも外にあるので、外に出てそこに行けばいいことで、ミュージアムの中から実際の自然を見る必要やミュージアムに自然を取り込む必要は本当はないのである。

 それよりも徹底して「ココロの真空」としてのミュージアムの場で素になり、子供に戻って、誰もが夢の世界に勇躍できるような楽しい、心躍る仕掛けを僕は用意したいと考えるのだ。

 都市の真ん中は人間の生活の中心で、そこで人はあれやこれやの思いや焦りやいら立ちの中で、混沌(カオス)の日常で、常に忙しく走り回っている。それが生きるということの実相だろう。だからミュージアムという、そういうカオスからいったん自分を断ち切る「箱」がわれわれ人間には必要だ。

 それを非日常、異界とまでは言わないけれど、人間は普段の雑多な日常生活を断ち切る必要が時にある。生きていくための「こうしなければならない」「こうでないと駄目」という、あれやこれやの「血のよどみ」=社会が人間一人一人に要求する制約や規範因習にがんじがらめになっている状態=の外へ出て、しばしココロの自由を獲得する必要があるのである。

 ある友人がラテン語でこれを「EX(外へ出る)・STASIS(血のよどみの)」というと教えてくれた。これが実は英語の「エクスタシー」、つまり宇宙生命や自然生命と自分が一体になって「ああ、俺は生きているんだ!」と体中で感じる生の高揚感の原義、語源なのであった。

 だから僕は県立美術館のオープンを前に自らにこう言いたい。「エクスタシーをくれなくて、何がミュージアムだ!」


 新見 隆(にいみ りゅう)
 県立美術館長
 武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成26年10月20日朝刊掲載