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OPAMブログ

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『美しさと哀しみと』 -人形づくりと人形劇のワークショップを終えて

寄稿 2019.01.30

 ここに書くブログは、年末にアフタークリスマスでやった、僕自身の作家としてのワークショップ(人形づくりと、人形劇の)の報告記ではない。むしろ、パレルゴン(美術では、ギリシャ彫刻などの、彫刻の台座とかそれを支える柱のような、つまり「本体」に対する「付属」という意味)的な副産物である。だから、これ単独で、僕の人形論として読んでもらって構わない。
 タイトルの『美しさと哀しみと』は、川端康成の小説の題名から取ったが、その筋や内容とこのブログと関係あるのか、というとまったく無い。だから、その本を読んでも、何のことか分からないだろう。ただ、その小説というか、川端文学が一貫して持っている、虚無感のようなものが、今の気分にそぐうているだけだ。とりわけ、この『と』というのが、好きだ。人間いろいろ雑多のものに紛れ、日日誰しも磨り減っているだろうが、そこにある悲喜こもごもに向き合いながらも、それだけでもない、「だから、それがどうした?」という、一種の捨て台詞的、乱暴な、けれど、清涼感に溢れた生き方が、なんだか最近気になる。だが一方で、僕は本質的には、かなり楽観的で前向きな人間なので、川端が好き、というと変に思われるかも知れない。むしろ、一世を風靡した、耽美派の名匠、立原正秋の方が、気質的には近いと思う。ちょうど親の世代の人だ。日本の戦後文学で誰が好きか、と言われると、三島由紀夫と立原になるだろう。まあ、詩人や歌人では他にもいるが、小説家というとそうなる。


[ 長々とした意味不明の前置き、あるいは「子供」に感じる個人的トラウマ ]
 子供が好きか、ときかれたら、ちょっと返答に困る。
 それは、人間が好きか、という問いかけとほとんど同じような気がするからだ。
 さすがに生きている以上、「嫌い」とは言えない。
 けれど、積極的に「好き」とも、もしかしたら、言えないのかも知れない。
 誠に情けないことではある。だがこれは、人生の命題にかかわる、深い哲学的な問題だ。
 ちなみに、ここでは細かく書けないが、僕の最後のゼミ四年の(僕は、武蔵美の教員でもあり、週の前半は東京で授業をやっているが、二十年在籍したある学科を離れて、特定の学生を持たず、全学の学生を教える、謂わば一般教養的な研究室に去年四月から、移った)学生に対する、モットーというか、テーマが、「私は、世界が嫌いだ」だった。ある学生が卒業制作で民藝運動の創設者、柳宗悦のエスペラント語訳を試みたので、彼にきいて、「ミ・マルアマス・ラ・モンドス」(私は世界が嫌いだ、のエスペラント語)を、唱えながら?皆で考察した。別にテロリストの養成ではなくて、現代の若者が社会に絶望している原因を探ったり、悲観的にならざるを得ないような今の社会に蔓延している問題や、その起源を考える、真面目な研究だった。
 それにしても、生きていることは、ある意味、最終的に「ホンモノ」の人間愛に到達するためのプロセスだとも言えばいえる。学問も芸術も、その手段と言えばいえる。まあ、まだ死ぬまでには時間がもう少しは(たぶん)あり、つまりまだ修行の余地もあるという安易な考えもまた一方で出来る。
 フランスの小説家モリエールだったか、『人間嫌い』という小説がたしかあった。フランス語で、「ミザントロフ」という。それから、好きな小説家だが、戦前南洋庁のあった、トラック島に勤めたこともある中島敦、そう、教科書にもでてくる『李陵』や『山月記』の原作者中島には、すごく面白い短編『斗南先生』がある。ミザントロフそのもの、それこそ「性狷介にして、人と交わらず」を地で行ったような、短気で怒りっぽく、世の中のすべて、他人のやることなすこと全部気に入らない、という一老人が病で亡くなるまでの話しだ。たしか役柄というか職業は、退職した学校の先生だったと思う。哀愁、哀感漂うかといえば意外にそうでもない。むしろ、さっぱり爽快な読後感。ギリシャ悲劇の例の「カタルシス」(「浄化」とでもいうかな、凄惨な人間の性(さが)の現実を突きつけられ、逆に心洗われる?という珍奇な心理現象)というのにも近いのかなあ、もしかして。
 数年前のことだが、世界で一番嫌いな渋谷の雑踏を歩いていて、またこりゃ今日も人間愛(ヒューマニズム)失くするなあ、とぼやいていたら、急に、道行く膨大な人間がぜんぶ突如として異星人に見えたことがあった。その時思ったのは、「ああ、そうだったんだ、人間という一種類の動物はじつは一匹も存在せず、全部、親兄弟は元より人類すべては、それぞれ別の星座からやって来て、たまたまほんのしばし、人間としての生涯のあいだだけこの地球にやって来て仮住まいする、それぞれが出自を違える異星人だったんだな。皆、ここで演じている人間が終われば、また別々の星に帰ってゆく、そういう不思議な生命だったんだよな」と、謂われなく手前勝手に実感したという馬鹿な話で、その時急激に、長いこと失っていたと思っていた(深い?)ヒューマニズムが、体内に甦った気がしたことであった。
 人間だと思えば腹が立つが、異星人だと思えば興味が湧く。別段、人間蔑視じゃなく、その逆であろう。
 言い方を変えよう。
 「子供には、好かれる」。これは間違いない。好かれる、というより、自分が変な動物として、興味をひくだけだろう。子供は、「匂い」でそれを嗅ぎわける。自分では変人とは思っていないが、「お前が普通だったら、天地が逆転する」と、よく知り合いや友人には言われる。正直に言うと生まれてこの方「「変わってるなあ」と言われ続けた。わざとやっているわけでは毛頭ない。時に自分でも「変わってるなあ」と人に言ってみるが、「お前にだけは、言われたくない」と異口同音に返ってくる。そういうと業界の他の人に失礼だが、恐らくは一人前の大人としては、たぶん美術というこの特殊な業界にしか、生きられなかった動物である。その自覚はある。
もっと話題を変えよう。
 20世紀きっての彫刻家だったイサム・ノグチは、いつも、「子供のやることに興味がなくなったら、芸術家としては終わりですよ」と言っていたそうだ。これは、ノグチのパートナーでパトロンでもあった、石彫家の和泉正敏さんにきいた。だから何なんだよ、と言われれば身も蓋もないが、その通りである。
 さらに話はズレて、学生時代に戻る。
 田舎のカトリックの男子中学・高校(広島だ、当時新幹線はまだなく、今なら通えるが、県の東にある尾道からは通学は無理だった)で六年間寄宿舎生活をして、詳細はここでは語れないが、高校三年の春、カトリックの洗礼を受けた(進学校なので、信者もごくわずか、洗礼受けるのなんて変人で、学年に一人いるかいないかだ)。それで大学に入って東京に出て来て、信者というので先輩に呼ばれたのが四谷の上智の横のイグナチオ教会の日曜学校だ。日曜に子供たちを預かって、遊ばせる。夏にはキャンプに行ったりする、まあボーイ(ガール)スカウトみたいなもんだが、四年までそれをやった。女房はその最初のコンパで隣に座った同級生?だ。彼女はもっと田舎(山口の萩)のカトリックの女子校に通って洗礼受けていた。
 だから、前言を翻すと、たぶん、子供が好きなんだろう。
 だた、大学出てすぐ、若くしてその女房と結婚したので、仕事を覚えて一人前になるのが当時必死で、自分の子供たちを放ったらかしにした。まあ家族を顧みられるようになったのが、つい最近で、その悔いはたぶん生涯残るだろう。
 子供たちは今や三〇代だが、悔いは変わらない。十年ほど前に、「お前たちを放っておいて、悪かった。生涯かけて償う」と手をついて謝った。カトリックなので、「原罪の無いのは、マリアさんだけ」、誤解を恐れずに言うと、後は所詮生きていることそのものが、ある種の罪なので悪いことをするのが人間当然(むろん、積極的に勧められるものでも無いが)、だが「しまった」と思えば、まず謝ればいい。それで良いか、それだけで許されるかどうかは判別しかねるが、その後のことは畢竟神さまの問題で、人間がクヨクヨすることは無い。こういうとお気楽宗教、信仰のように思われるだろうが、それも実は違う。
 ついでに恥を晒すと、じつは「放っておいた」だけではない。かなり厳しい育て方をした。戦前のスパルタ教育に近かった。それもここでは詳述しない。一冊の小説が書けるが、一例をあげると、子供たちを「電車のなかで、絶対に座らせなかった」。「子供を叱らない」、「友だちのようでいたい」、と思っているらしくメディアでも話題になっている、今の若い親たちがきいたら、吃驚することばかりだ。過去のゼミ生は、そういう僕の一面を熟知している。彼らにも、いつか謝らないといけないな、と思っている。
 人生に「もしも」は無いが、もう一度「子育て」をやり直したい、と死ぬまで思い続けるだろうなあ、たぶん。死後もか。
 ところでまた話を変えると、この歳になってくると、一年日日があっという間に過ぎてゆく。
 人の話だが、単に歳をとると、集中力というかエネルギーが薄まるらしい。
 子供の頃は、今とちがって、飯食うのが嫌、寝るのが嫌い、寸暇を惜しんで遊んで遊んで遊び倒した。あの熱狂は、二度と戻っては来ない。宇宙生命の根っこをしっかり掴んで、揺るぎなかった時代だ。
 それが今では、まるで違う。情けない話だ。歳は取りたくないもんだ。
 それでも子供の頃に帰りたい。それは、無理だ。だが、見果てぬ夢だ。
 じつは、この夢を多少なりとも叶えてくれるもの、この世でその唯一無二のものが、アートなのである。アートしかない、と断言して良い。
 だから、僕は、美術館や美術大学で働いている。その場をすべての人に提供するために、である。

[ 人形について ]
 二日間のあいだ、僕はほとんど、参加者に向かって、普段するレクチャーというか、講義?というか、そういうお話をしなかった。一人ひとりには、声をかけたり、話したりはもちろんしたが、それは講師?としてではなく、何か、子供というか大人というか、どっちでも良いが、そういう、一人の人間、おじさんのかたちをした動物としてである。
 だから、時間が経ったので、もう、内容はほとんど覚えていない。それでいいんだ、とも思う。
 「人形」とは何か?
 おそらく、これについて話すと、またまた一冊の本が書ける。
 もし、人形について面白い本が読みたい、と思う人は、誰でも子供の頃から親しんだ童話、ドイツロマン派のホフマンの『くるみ割り人形』から、『楢山節考』で有名な、深沢七郎の『みちのくの人形たち』まで、枚挙にいとまがない。
 個人的には、文楽つまり人形浄瑠璃から、東欧やドイツ、オーストリアで盛んなマリオネット劇場、チェコの異色の映画作家、ヤン・シュヴァンクマイエルの映画など、さまざまなものに親しんだ。それらは、人形づくりのお勉強だったと言えばいえるし、未だにそういうことをあいも変らずやっている。
 だが、何故、こういうものをつくり始めたのかは、定かではない。
 もう、かれこれ二十年以上前の大晦日に、尾道の実家にあった、お袋が洋裁で使っていた(父親なしで育ったので、大正生まれのお袋は、戦後すぐの日本の母親同様、手づくりの洋服を僕に作ったばかりでなく、小さな婦人服の洋裁店を営んで、僕を育てた)端布を見ていて、突如何かつくりたくなって、布を勝手気まま、手のおもむくままに針と糸で繋ぎ合わせてつくったのが始まりだ。その日は、何故だか、熱を出して寝込んでしまった。
「つくる」というのは、自分の中から、何か別の存在、得体の知れないものが生まれ出てくることなので、生理的や身体的には、非常に不可思議な現象がともなうのだろう。
 その人形は今でも、お袋の家の壁に飾ってある。それいらい、人形づくりはある種日課のようになって、道具も持ち歩くようになった。電車や飛行機、いろんな待ち時間に、どこででも簡単に出来る。場所を取らないし、針と糸があればどういう姿勢でも出来る。昔はよく見かけたが、電車などで編み物をしている女性を見ると、食い入るように見入ってしまう。同類、と思うからかも知れない。人が見たら変に思うだろう。それ以来、かれこれ百体は作ったのじゃないか、と思う。数えてはいない。原則は、好きな小説家、詩人、音楽家、絵描きなど、会ったことのない人物をつくっている。すべて、物故者だ。だから第一号は、クレーということにしている。クレーは、いくつかつくった。死んだ物故者に限っているが、日本人も幾人かはつくった。
 材料は基本、布。これはほとんどと言っていいぐらい、お袋が縫った洋服(つまり婦人服ですな)の余りの端布だ。律儀なんじゃなく、まあ無精で、家にあるから、という理由だ。あとは、ボタンやビーズやリボンなどは、昔は買ったり、集めたりしていたが、今は面倒で、手元にあるものでだいたいは、済ませる。
 人形だけの個展や、他のスケッチや箱などと組み合わせて、画廊で展覧会を何度もやった。買ってくれた人もいるし、ファンもいる。鉛筆画の真島直子さんや、写真の今道子など、僕の人形のコレクターと言ってもいい。
 だが、幼稚なので、人形は、お守りというか、分身というか、身代わりというか、子供の頃の玩具というか、そういう「精神的おもちゃ」のつもりでつくり続けている。
 よく友人に「おじさんの少女趣味だ」と揶揄されるが、こういう言い方には無意識のさまざまな差別意識が潜在している訳だが、それを重々分かったうえでいうと、人間はみな「両性具有」的存在であって、男女の別を言うこと自体ナンセンスだが、ある作家で友人が、昔「男の前世が女で、女の前世は男だから、両性具有は当たり前さ」と言っていた。それより、何かをつくる、生みだすことは、秘めたる自分、隠された自分を探す旅、だとも言えなくもない。
 もっと哲学的に突っ込むと、「ものをつくる」ことは、世の中でいっけん区別や区分されているようにみえることの「境目」を超えてゆくことだ。だからまた、ある作家は、「人はよく、幸、不幸の違いを言うが、アートやっているのは、そいう区別、幸不幸の区別の無い世界に生き始めることだ」と言った。
 三〇代は、展覧会を企画するので、一年のほとんどを海外を旅する生活をやっていた。あるとき、日本でも人気の高いモダン・アートの画家、パウル・クレーを集めているベルンの美術館に行った時に、初めてクレーが息子につくった人形をみた。この人形の面白さに吃驚した。頭は石膏でつくってあって、彩色され、胴は布地で巻いてあって、両手は指が通るか入る、つまり指人形スタイルになっている。僕の奴は、この指人形スタイルと、胴体と手足が、別づくりで、それぞれくっつけてある形式のと、二種類ある。
 部族芸術には、アメリカのホピ・インディアンの「カチナ人形」や、アフリカやオセアニアなど、人形が多い。これは「フェティッシュ=呪物」と言って、人間の身代わりの役目をして、ある時は火にくべられたり、楔を打ち込まれたりして、「異界と交流=交霊かな?」するための手掛かり、道具になったり、「犠牲=身代わり」に儀式のなかでなったりするものが多い。日本でも、東北のイタコが「口寄せ」する道具である「オシラさま」などが、それだ。
だからといって、人形(深沢のさっきの小説の最後には、こけしの文字の起源についての暗示が最後に出てくるのだが)を僕自身は怖がってはいない。見る人によっては、僕の人形を気持ち悪い、と言う人がいるが、人形は人間が生みだすもので、人間はもとから気持ち悪い「化け物」以外何ものでもない、という考えだってある。だから、人形は怖い(これは、先ほどいった、呪物の性格上、あるていどは仕方ない)と思うのならまだしも、気持ち悪い、というのは自家撞着そのもので馬鹿らしい。
 大きさがだいたい、本体は三十センチほどあって、なかなか一日では完成しない。それと、布で綿か薄い紙、テッシュペーパーでも構わない、を巻き込んで、周りを縫い合わせる。だから、ややもすると縫いぐるみのようになってしまう、あるいはてるてる坊主のようになってしまう人がいるが、これはちょっと僕は好きではない。どうも、縫いぐるみ的、テルテル坊主的になると、人形にならないような気がする。どこがどう違うか説明できないが、何となくそう思っている。
 子供の頃、僕は人形では遊ばなかったし、縫いぐるみは、ごく小さな時以外持っていなかった、と記憶する。
 武蔵美で今まで十九年教えて、ゼミ卒業生も、ほぼ二百人近くいる。四年卒業の卒業式の時に、三年のゼミ学生がつくった人形を一体ずつ、記念(小さいから、お守りかな)にプレゼントする習慣が続いている。つくる連中には「頭、顔が命だから、それをまずしっかりつくって、後は、縫いぐるみやテルテル坊主にならないように注意してな」と、それだけ言う。けれど、やっぱりそうなる奴は成るなあ。これが。
 昔、小説家の保坂和志さん(西武美術館時代の同僚だった)が、個展に来てくれて、新聞に「ニイミのは、何でもコラージュ、平面も立体も継ぎ接ぎで、面白い人形も見たが、これもいっしゅのコラージュだ」と書いてくれたことがある。僕の出発点は、紙に写真などのイメージを鋏で切っていろいろに継ぎ接ぎして貼り合わせたコラージュ(箱も、立体のコラージュだ)だったから、やはり、何でもコラージュなのかも知れない。これは大学の時に、モダンアートのシュルレアリズムという一派の、美術と文学を掛け合わせたような傾向のものに、すごく影響を受けたことが大きいのかも知れない。
 最近もずっと、コラージュにはひかれていて、大分市でカモシカ書店というユニークな古本カフェをやっている岩尾晋作君と、「大分新見ゼミ」を自由参加性でやっているが、ここのところのテーマはコラージュだ。僕のなかで、コラージュと人形はどこかでつながっている。
 文章でも何でもそうなんだが、場当たり的に「何となくつくる、書く」というのが、いちばん自分に合った手法なのかも知れない。悪くいえば好い加減で中心的構成が無い、良くいえば、即興的でアナーキー、ということになるか?
 昔、詩人で彫刻家の飯田善國さんが、イサム・ノグチの彫刻の本質は、「生命の揺らぎ」だ、と喝破したことがあって、感心した。一般に美術の造形力は、西洋の美術でいうところの、古典的構築性=アポロ的(太陽神)なもの、に対する、ロマン的舞踊性=ディオニソス的(舞踊神)なもの、その二つの鬩ぎ合い、と言われることがよくある。真の優れた造形家には、この両方が無いと駄目とも言われていて、僕の場合は構築性など考慮していない(興味無いんだと思う、面倒臭いのだろう)ので、造形家としては端から二流であるし、それで一向構わないと開き直っている。
 けれど一方、「人形」とは言っているが、自分では、布と糸で彫刻をつくっている、と思っている。
 クレーいがいで僕が尊敬するのは、江戸時代の坊さんで信州、岐阜を中心に全国(まあ、東日本、北日本だが)を旅しながら、自己流のざっくりした仏像を彫った(というか、削った)円空である。自分の目標、と言っていい。
 このあいだ、対談というかトークセッションをいっしょにやった、俳優の滝田栄さんが、自分が仏像を彫るようになったのは、亡くなった両親があちらの世界で幸せであるようにお釈迦さまに祈る、その替わりだ、と言っていらした。たいへん素敵なことだな、と感心したが、僕のはそんな上等な理由ではさらさらない。彫刻のつもりにもかかわらず、手や身体が動くがままで「成り行き」任せ、構想もスケッチもあったもんじゃない。素材やプロセスに完全に身を任せて何も考えない。僕は絵でもそうだが、構図とか考えずに、いきなり描き始めて、成り行きでやる、任せるタイプだ。理系の頭はまったく無い。感情、感覚オンリーの偏った人間、動物なのである。

[「劇は、この地上と天界を繋ぐもの」]
 この言葉も、クレーの言葉として、デザイン学の泰斗、向井周太郎先生に教わった。クレーは、二十世紀の革命的美術学校、バウハウスの先生だったし、何とそこで、人形劇を授業のいっかんで取りあげてもいた御仁だ。
 僕も大学のオープンキャンパスの演しもので、人形劇をやったり、個展や学生との展覧会のオープニングで、学生有志に演じてもらったことがある。
 主にやっていたのは、さっきいったシュルレアリズムの元祖みたいな詩人で、アルフレッド・ジャリの、抱腹絶倒、摩訶不思議、奇妙奇天烈なる、ナンセンス劇、「ユビュ王」だ。悪辣非道な、ユビュ王とその奥さんユビュおっかあが、奔放自在に悪の権現と化して暴れ回る筋立て。
 その後は、自分で脚本を書いた、「光の庭」というのを長くやった。これも、キリスト教や西洋文化を下敷きにしてはあるが、「花」になった少女と、その父親である「墓守」が、現世や来世、「元の世」を行ったり来たりする、珍話だ。
 当日のワークショップでは、子供たちをはじめ、皆さん、人形はさっさとつくってしまったので、後は、舞台をつくってもらって、二日目の午前にグループで役柄とお話を考え、最後に演じてもらった。
 素敵に楽しかった。
 僕は、「下らない?ことをまことしやかに教えたり」せずに何をしていたか、というと、子供たちをじっくり、ゆっくり見て観察し、一人ひとりの生態に接するのが、すこぶる楽しかったのである。
 二日間、そこには長い人生と同じくらいに、そして深淵な人生と同じくらいの、大きな振幅の喜怒哀楽が、悲喜こもごもが、見てとれた。
 人間は変わっていない。そして、一人ひとりは皆違い、人形のつくり方も、表情や身体の動きも、すべて別もの、正しく異星人であった。
お弁当の食べ方、開きかた、仕舞い方、仲間のつくり方、話し方、笑い方、怒り方、泣き方、その一つひとつに、僕は見入って見入って、穴の開くほど見入って、楽しんだ二日間だった。
 ではいったい、何も話さずに、人形の本質が、その哀愁、悲哀、寂しさ、懐かしさ(彼らもまた、異星からやって来た者たちだから)が、子供たちに、分かったのか、伝わったのか?
 答えは、「イエス」である。
 それは、当然のように、心と身体に染みこんだだろう。
 そして、子供たちは、ものをつくることは、「見えない自分との対話」、「見えない、自分のなかの、他者への旅」、「宇宙の神秘への旅」だということが、身体で分かっただろう。 
 何しろ僕は人形師、つまりは妖術家だから。
 榎本さん、野上さん、藤木さん、そして参加者の皆さん、お疲れさまでした、楽しかったねえ。

大分県立美術館 
館長 新見隆