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OPAMブログ

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前衛にとっての「庭」とは何か?

new展覧会 2017.12.07

前衛にとっての「庭」とは何か?
-作曲家、清水慶彦さんによる、レクチャー・コンサート
 & 永野怜美さんのフルート演奏、報告記

「イサム・ノグチをめぐる戦後日本の音楽創作
 ―武満徹《巡り-イサム・ノグチの追憶に-》を起点に-」

[ ミュージアムでこそ、音楽を! ]
 ミュージアムで音楽の生演奏を聴くチャンスがないのなら、「五感のミュージアム」など、格好の良いコンセプトを掲げても、無意味だ、と思う。そういう自戒の意味で、我がOPAMも、もっと頑張らないといけない、とつくづく思った瞬間だった。
 情熱的に、時に軽快に冗談っぽく、ある意味難しい、そして一般には聴き慣れない、「現代音楽」について分かり易く、懇切に語る清水さんの口調は、新しい世代の多様化相対的な音楽観や、それに対する批評的挑戦的な意欲、またあるいは冷静で覚めた時代感覚などの綯い交ぜを想わせて、極めて刺激的な出来事として、深く感銘を受けた。その透徹な視線に、喝采を送りたい。
  何より、《ヴォイス》(1971)、《巡り-イサム・ノグチの追憶に》(1989)、そしてほぼ遺作という、《エア》(1995)、この三つの、武満のソロ・フルート作品を、渾身の演奏で聴かせてくれた、永野さんの、エネルギーと構成力のある力量に、舌を巻いた。
 大分に、こういう素晴らしい若手音楽家が、活躍することは、ある意味、未来への大きな光を感じて、感無量だった。
またいっぽうで、以下の話はかたちを変えて、清水さんもその日語ったことだが、現代音楽の歴史を考える時、ことに戦後のそれについては、今日の、行き場のない社会の、ポストモダン的状況をみると、ある意味、それは、現代音楽の韜晦と逡巡がすでにして預言していたものだ、という感懐をもいだいた。
 私どもは今、極めて難しい時代を生きている。かつては、自分の信条や好みに合わないものは、単純に切り捨てられた。だが、今このように、多様化した価値共存の時代になると、それは容易に出来ることでもなく、また正解とも言えない。いっぽう、あまりにすべてを許容すれば、またそれも、「何でもあり」の茫洋たる、無意味の大海に溺れることにもなりかねない。清水さんが、最後に語りたかったものも、たぶん、そういうことになるだろうか。
 
[ 時代精神の場として ]
 かつて80年代から90年代にかけて、日本でも異色の、大文化人企業家であった、堤清二さんに薫陶を受けていた、駆け出しの学芸員時代が私にはあった。 現在のキュレーターとしての素養のすべてをそこで培ったと言って良いが、ここでは詳述しない。
 そこ、東京池袋のセゾン美術館は、同じ建物の八階に、スタジオ200という、前衛的実験的なものばかりやる、上演小ホールを併設していて、そこでは、勅使河原三郎が、あの圧倒的なダンスを披露して、立ち見席を求めるファンは、路上に長蛇の列を成したし、あの、下駄を履いて浴衣姿の、蓬髪の魔神、暗黒舞踏の創始者、土方巽が、楽屋で弟子たちを叱咤する声もきいた。
 年末には、恒例「ミュージック・イン・ミュージアム」があり、私どもが企画した、当時ソビエト連邦時代、政府非公認のロシア・アヴァンギャルド芸術をゴッソリ日本に持って来た「芸術と革命」展に合わせて、千田是也さん監修で、かの伝説の前衛劇「太陽の征服」が、館内特設ステージで上演された。今思えば、夢のようなプロジェクトの連続であった。
 そして、通常の企画の中心には、戦後の現代音楽の牽引者だった、あの一柳慧さんがいたし、そして、武満徹の姿がいつもあった。
 70年代の後半から、80年代、90年代の日本の先端文化は、セゾン文化によって牽引された。それはそれ以前の、前衛生け花の、偉大なる巨人、勅使河原蒼風の起こした、草月会館、そして草月アートセンターの、画期的な国際運動を、確実に引き継いだものであった、と思うが、それも、堤清二さんの、「時代精神の拠点であれ!」という、その強靱なスピリットの体現だったと感じられる。
 では、今日において、前衛とか、前衛的拠点とかは、可能なのだろうか?
 「記号的分かり易さ」が溢れかえり、「単純なスペクタクル=見世物」(ギー・ドゥボール的な意味で、映像作家、能勢伊勢雄さんからの又聞き)を求める現代においてすら、可能だと信じる、私はオプティミストなのだろうか? 
 
[ 前衛の継続か、価値の共存か ]
 長く、ロマン派音楽を愛聴して来たので、そして世紀末芸術が、狭い範囲での専門といえば専門にあたる私にとって、現代音楽は、和声に基づいた調性音楽を抜け出し、不安定で空中に漂う、無調性音楽の海原に漕ぎ出した、二〇世紀の開拓者のなかでも、せいぜいウィーン学派の師父シェーンベルクと、その弟子のベルク、そしてロシア世紀末の異端者、スクリャービン、止まりであった。(註1)
 じつは、この「何何止まりだった」という表現こそ、前衛(アヴァン・ギャルド、という、戦場での前線を意味するフランス語に由来する言葉の訳語だが)芸術という、謂わば、それ以前の革命のいっさいを打ち捨てて、払拭して、零から新しいものを生みだそうとした、この無上で至上の、” Newness “ 至上主義病=新たなるものへの熱狂的な熱望に取り憑かれた、二十世紀芸術的「病」、その宿痾のごとき、ある意味、偏執的とも言い得る、性癖そのものであったのである。(註2)
 このことは、前衛音楽とはいったい何か、という初めの出だし解説で、清水さんが語ったことであった。音楽が、ルネサンス以前から西欧が伝統的に培ってきた、和声による聴いて心地良く響く音楽を離れ、セリ-による、数理規則的、あるいはゲーム偶然的な、冷たい理知による、自動音楽創造装置の発案そのものへ向かったことを、語りながら、清水さんが指摘したことだ。(註1)
 そして、このことは、再びレクチャー最後の、所謂「ポストモダン的」状況論のなかで、浮上した議論であって、「前衛 の継続=永久続行?」か、「伝統的な技法と、十二音技法などの併用による、価値の多様化への寛容」か、に迷い、戸惑う、現代音楽の、それこそ「現代的」混迷としても、語られたものであった。
 
[ 浪漫主義の偏在 ]
 私は正直に言って、芸術における「浪漫主義者」である。
 前衛的なるものを認めないのではなく、無理矢理に前衛であり続けるための、「形式のための、形式の創案」にさして興味を持たない、というか、フランス象徴詩の宰領、ステファヌ・マラルメが言ったように、「言語の前に詩があった」
と、単純に信じるという意味での、ロマン主義者なのである。(註3)
 それは、世紀末ドイツの詩人リルケが、さまざまなところで、とりわけその傑出した『ロダン論』(じっさいには、出版された本の、第二部の講演草稿においてだが)で、「芸術家とは、美をつくりだす人ではなく、美がこの世に現れるための、祭壇を、整える人」というようなことを言っている、そういう意味においてである。
 つまり、これを、芸術の「媒介性」と言っても良いだろうか。(註4)
だが、その芸術が絶対的に必要とする、「巨大な他者」を、ゲーム的偶然という、自動音楽創造装置にすり替えることは、いったい出来るのか?それが、私が個人的に現代音楽じだいに、持ち続けてきた疑問だった。(註5)
その疑問を解く鍵を与えてくれた戦後音楽家が、私にとっては二人いて、一人がむろん、武満徹、そしてもう一人が、あの「ゴジラ」の作曲家にして、「ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナート」の、伊福部昭だった。
 
[ 武満とノグチ ]
 二人は、庭に魅せられた芸術家だ。
 ノグチは、戦前から京都で禅の石庭に熱中したし、庭は生涯のテーマだった。
 それは、師ブランクーシから引き継いだ「モダン・アート」の、求心的で還元主義的な傾向が、結局、美術館などの当時の特権的な場での体験しか提供出来ずに、やがては、第二次大戦という未曾有の惨劇を巻き起こした、その反省に立ったからであった。
 だから、極論すれば、ノグチの庭は、人間を身体ごと、自然そのもの、風土や気候、日照や天気をふくんだ森羅万象へと、解き放つプロジェクトだった。あるいは、今の言葉でいうと、自然と身体のコラボレーション的インタラクティヴを目指したといえる。その到達点が、香川県牟礼にある、自宅兼仕事場、現イサム・ノグチ庭園美術館であり、そして死後十七年後に完成した、札幌市モエレ沼公園だ。
 そして、モエレには、むろんのこと、世界文化の調停者たる、イサム・ノグチがいる。
 そのものの造形を視覚的表層的に真似ているものはまったく無いのだが、それは、ある種巨大な、世界文化遺産の縮図であって、ノグチが身体で体験した、記憶の集積として、ストーン・ヘンジ、イタリアのカンポ・サント、パルテノン、ルクソール宮殿、アジャンタやエローラの石窟寺院、ジャイプールの天文台から、仁徳陵まで、さらには、マヤのテオティワカン、そしてインカの空中都市、マチュピチュなどが、星座のように鏤められているのである。
 音楽学者でもある清水さんは、丁寧に、さまざまな証言や、作者や同時代人の批評やコメントなどを、引用としてひいて私ども聴衆と読み込み、そこからまた、清水的歴史観のようなユニークな視点を開陳していった。
 じっさいにテーマとして取られた「庭」だけではなく、武満が、庭に点在する草木や石を、楽器や音の、速度や変化の実相に置き換えながら、如何に全体の音楽を構成していったかを、引用を併用しながら、清水さんは、実にスリリングに語ってくれたのである。
 私の浅薄な印象では、武満は、部分と全体を構成するプロセスを、ある一貫した統一的原理によってつくってゆくのではなくて、その場その場、その瞬間瞬間の、場(音楽的舞台とでも言うか?)とオブジェ(無言劇の登場人物か?)の出会いと離散の、つまりは絡み合いの「関係性」(それを、清水さんは、たしか強調していたように覚えているのだが、、)の総体としてとらえ、全体をひとつの「流れ」(川の流れのような)として構成していったのだな、ということが、多少は理解された。(註6)
 たぶんそのことが、琵琶や尺八など和楽器を武満が使ったり、和楽器の音に近い音を西洋楽器に要求したりしたいじょうに、武満が「日本的なるもの」を求めて、庭に注目した所以ではないかと、思えたのである。まあ、それもひとつの、音楽的無知である私の錯覚かも知れないのだが。
 
[ 円環、この閉じられない庭の物語 ]
 私はかつて、90年代初め、ニューヨークのカーネギーホールで、武満が依嘱を受けた新作の、小澤征爾ボストン交響楽団による初演を聴いている。
 けれど、やはり私にとっての武満とは、「弦楽のためのレクイエム」と「エア」、この最初期の傑作と、最終着地点のような、謎の残る佳品である、その二つの円環の構造である。
 ノグチもまた、最晩年に、あの前人未到の石による、石彫彫刻群を残した。
 あの、異界から投げかけられた謎の箱のような作品群は、ノグチが多用した、「円環」的運動を、別のかたちで、圧縮したものだ。その意味で、宇宙や自然のミニチュア、と言っても良い。
 美は、美の終焉に向かって、いったんは投げ出されるが、投げ出されたものは、再び、美で無いものの、輪廻転生として、身近に現れて来る。
 それが、生の円環と、生いがいのもの、それを美と言っても何と言っても良いが、それらが重なり合う時であって、ただ私どもは、それを待ち望むだけだ。
 そういう、心地良い、師走の日曜が過ごせた、至福の僥倖だった。
 何より、作曲家としての清水さんが、ノグチに挑む、世界初演「アンサンブル・リュネットのための、《地球の骨 イサム・ノグチの追憶に》に熱い期待を寄せよう。
 来年新春一月十日水曜午後一時から、iichiko総合文化センター、音の泉ホールにて。乞うご期待である。
 
(註1)
現代音楽についての知見は、すべて、畏敬する音楽評論家、遠山一行先生の書かれたものから、学んで借りたもの。
(註2)
“Newness”信仰、は誰かの言葉を読んだものの借用だが、出展は今はもう思い出せない。本江邦夫さんの『現代美術入門』?からかも知れない。
(註3)
慶應義塾の恩師、立仙順朗先生の口癖だった。
(註4)
畏友の作家の、さかぎしよしおう、の言葉。
(註5)
「巨大な他者」とは、レクチャーで登場した、美術批評家にして戦後前衛の牽引者、瀧口修造が、「古代美術のグローバル性」について語った時に使った言葉。
(註6)
これもどの著作だったか、『樹の鏡、森の鏡』か?覚えていないのだが、武満は、「邦楽を、西洋音楽に対して、川の流れのように感じる」と言っていた、と記憶する。