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OPAMブログ

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「アートも食も」 県立美術館長の大分ビーナス計画 その十七

寄稿 2017.04.01

新見館長のドローイング

新見館長のドローイング

何で新美術館の館長になったのと経緯を聞かれることが多くあった。竹の生野徳三先生はじめ、勤務校である武蔵野美術大学の出身者が意外にも大分には多い。略して言うと、その関係で学長室に呼ばれ、派遣されて現在に至っているという感じだ。
大分に地縁血縁はない。生まれ育ったのは広島県東部の古い港町、尾道市である。母はいわば職人で、洋裁で僕を育てた。広島のカトリック系中学と高校の寄宿舎で暮らし、高3の時に受洗した。洗礼名は学者で初めは迫害者だったが、一転してキリストに従い、最後は殉教する聖パウロだ。
獄中で書いた「ロマ書」の核心は「人間めいめい、その弱さこそが光だ」であって、日本でいえば親鸞にごく近い。
母は劇団民芸の演劇や、倉敷市の大原美術館に僕を連れて行った。美術館で初めてルオーの「呪われた王」やセザンヌ、ゴッホの実物を見て以降、この道で生きていくのを決めた。
グラウンドから遊び疲れて帰って、家にあったクラシックレコードを片っ端から聴いた。小学生のころに崇拝したのはベートーベンだ。絵を描くのも子どものころから大好きだった。柔らかな色彩で鳴らした独立美術協会の小林和作が暮らした尾道市は「絵のまち」として、年中スケッチ大会があり、画廊喫茶や画材屋が街じゅうにあった。
僕が好きなのは亀山善吉という、ちょっとヘタウマ風に街並みを半抽象で描いた画家だ。
慶応大学フランス文学科でも絵は描き続け、憧れのボードレールやランボーに夢中になった。生涯の仕事を決める段になって、やっぱり残ったのは学芸員、美術館、そして美術の仕事だ。卒論もフランス文学では異例の、異端の美術家マルセル・デュシャンだった。
詩人・小説家にして企業人だった堤清二さんの部下として20年弱、展覧会づくりに奔走した。現在では世界中、友人のいない美術館はほとんどない。
考えてみると、ミュージアムとは僕が生涯学び、生きていく現場だった。親しんだ美術館は日本でも世界でも、壁と作品の配置が頭に全部入っている。
現在の現場は県立美術館(OPAM)である。僕はここで年6回のコレクション展をはじめ、企画展などで学芸員と一緒になって作品に触れ、配置を考えて並べ、現場の人間としてつくり上げている。だから僕は一兵卒でもある。これが無類に楽しい。
絵を描き、焼き物を焼いて、ガラスを吹き、手で作品を作っている。「身体で感じる」のが信条だ。芸術の原点は「ヘタウマ」である。乱暴にいうと、技術は自然に身に付くもので、肝心なのは技術のあかをいかに払い落とし、自由になるかだと思う。
今の世の中「あれやっちゃいけない、これも駄目」と禁止や規則でがんじがらめだ。芸術の基本は「真っさらな自由」である。僕は「今の世の中、美術館ぐらい変でおかしな驚きがないと。他にどこがあるの」と学芸員を叱咤激励している。
ミュージアムは老若男女が「真っさらになれる」すてきな場である。さあ15日からは、その型破り美術の王様「北大路魯山人」展の開幕である。乞うご期待。
       =終わり=

新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大学芸術文化学科教授

 大分合同新聞 平成29年4月1日朝刊掲載