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OPAMブログ

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「アートも食も」 県立美術館長の大分ビーナス計画 その十五

寄稿 2017.02.18

新見館長のドローイング

新見館長のドローイング

昔、僕が駆け出しの学芸員のころから、手取り足取り教えてくれた先輩というか兄貴分に、ある時こう聞かれたことがあった。
「ニイミよ、俺たちは何で美術の仕事を生涯懸けてやっているんだと思う?」。僕はすぐさま「それは美に憧れ、それに身を浸し、広めるためでしょう」と答えた。この考え方は実は今も変わってはいない。ところがこの先輩は、あろうことか即座にこう否定した。
「それは違うな。芸術家がなぜ作品をつくるかもそうだが、俺たちが生涯美術に命を懸けるのはな、実はこの今の社会がこれでは駄目だと思うからだ。きれいなもの、美しいものは人間そのものも含めて美術以外にもごまんとある。だが、美術にだけは、美しさだけではない、人や社会を変える力、つまり社会革命の意思がその底に潜んでいるものなんだ」
以降、展覧会屋の職人として、この道を腕一本で35年も歩いてきたが、この一言は僕の脳裏に今もこびり付いて離れない。
「美は美しいだけのものではない。美は社会と人間自体を変えなければならない」
後に美術大学に移ってから、さらにこの問題が深いテーマになったのは言うまでもない。実は大分に新しい県立美術館(OPAM)を創設してその手伝いをするようになってからも、僕の中に深くあるのはこの一点の思いだ。
美術館とは人生の観想の場であるのだろう。僕は展覧会もコンサートも、絵画も彫刻も、小説も詩も音楽も、何でも「あらゆる美に触れる」ということは、すべからく「人生の観想」の契機だと思っている。難しく言うと、「無常」に触れること、そして「もののあわれ」の中に浸ることだ。世界中の芸術に触れれば日本人だけじゃなく、そういう感覚は世界中のどこでもあるということが分かる。
旅行してその場の空気を吸うのが一番だが、美術館にはいろいろな国、時代のものがあり、それぞれの「もののあわれ」感を発散している。
李朝のつぼも、中国の青磁も、シューベルトのピアノソナタも、もしかしたらニューヨークのハンバーガーも、全ての味の奥底にはそれぞれの「もののあわれ」が潜んでいる。
だから、僕はOPAMに来て、それぞれ自分の「もののあわれ」を体で感じ、夕空を見上げてもらいたいと願うのだ。
「ああ、自分にもこういうかわいらしい部分があったか」とか「自分再発見」と言ってもいい。作品に出会うのだが、それを通して実は人はミュージアムで、自分に出会うのである。
その習慣の持続こそが、おこがましく言えば、「全県民をちょっと変わった、面白い人々」に変えていくことだと僕は信じている。
新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長、武蔵野美術大学芸術文化学科教授

 大分合同新聞 平成29年2月18日朝刊掲載