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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その二

寄稿 2013.06.17

 グローバリゼーションの時代だとよく言われる。

 ただ良いことばかりではないようで、世界中になんとかカフェや、なんとかバーガーをつくって、均質化していけば、それぞれの地域の特色や持ち味が失われて当然つまらなくなっていく。

 大分は昔から、日本を代表するコスモポリタン(世界市民)の文化風土があった。石仏をはじめとする仏教文化や、南蛮文化、キリシタン文化、そして、三浦梅園のように宇宙と世界の仕組みを真摯に深く考える江戸期の思想や教育の伝統などが、しっかりとあった。

 20世紀のモダン・アートを切り開いた前衛芸術家たちは、新しいアートのかたちを未来に向かって志向しながら、自らの伝統と風土をきちんと大切にした。しかも、異文化に対して常にオープンであって、他からの影響を積極的に受けて、自らを変化させていった、まさしくコスモポリタンだったという。

 僕も同じことを前から考えて話してもいたので、彼の許可を得て、もう自説としてどこでも言っているのだが、実はこれは近代芸術家としてダンスや彫刻、絵画を総合した先駆者ドイツの芸術学校「バウハウス」の先生だったオスカー・シュレンマーの孫であるラマンさんの説だ。

 この間、武蔵野美術大の訪問教授として招聘したときに、彼が僕の学生に話した言葉の借用だ。

 ラマンさんは、新しい大分県立美術館オープン展の国際アドバイザーの一人で、自身はインド人にしてドイツ人という、グローバル・フュージョン(世界混合)だ。

 新しい美術館のコンセプトである「出会いのミュージアム」を偶然にも体現した人物でもある。

 というのは、大分の世界性と同様、欧州の文化とアジアの文化を総合したユーラシアの文化の理解者であるからだ。

 彼は、僕がセゾン美術館時代に企画した大規模な国際展「バウハウス展」に、オスカー・シュレンマーの作品を多く貸して大変協力してくれて以来、20年の付き合いで、週1度はスイスのバーゼルから電話をかけてくる。

 亡くなった父親は、インドの南部ケララ出身で、ドイツの美術学校に留学、そこでオスカー・シュレンマーの娘である母親に出会って結婚して、一人息子の彼をもうけた。

 現在は、年の半分はバーゼル、半分はケララを拠点にしながら、北京や上海、ベニス、マドリード、パリ、日本など展覧会の企画や講演、授業など、まさしく芸術ノマド(遊民)の生活を送っている。

 文化プロデューサーとしての活躍も、アートだけでなく、コンサートやバレエなど多岐にわたる。

 オスカー・シュレンマーは、絵画や彫刻だけでなく、それらと音楽、さらには人間の身体の動きを総合したユニークな20世紀のダンスの開拓者だった。

 僕らの目指す新しいミュージアムも「異文化が出会う」コスモポリタンであることはもちろん、異ジャンルが出会う五感のミュージアムでありたいと思っている。

 そして、最近僕がスタッフ皆に言っているモットーは「踊るミュージアム!レッツ・ダンス!」である。

 
 新見 隆(にいみ りゅう)
  武蔵野美術大学芸術文化学科教授
  大分県芸術文化スポーツ振興財団美術館開設担当理事

大分合同新聞 平成25年6月17日朝刊掲載