文字のサイズ
色変更
白
黒
青

OPAMブログ

印刷用ページ

大分のアート立国、文化リテラシー物語  その二十二

寄稿 2015.02.23

 先日夜に大分市中央町のワザワザビル屋上で、畏友のイタリアンシェフ梯哲哉さんプロデュースのイベント「食ラボ大分」があった。彼の監修した新美術館のカフェメニューが出るというので、僕もスタッフと出掛けて楽しみ、少しミュージアムの宣伝をさせてもらった。カフェの名前はフランス語で慈悲、慈愛という意味の「シャリテ」に決まり、社会福祉法人「博愛会」が運営する。

 驚いたのは、若い女性から少し落ち着いたマダムまで、すてきな大分の女性層がたくさん集まり、冬の一夜、食やらワインの供宴を楽しんでいたことだ。

 美術大学で「イート&アート」という講座を持っていて、最初の時は「料理を作るのか?」と学生に誤解されたが、そうではなく、詩人や画家が「食べる」というテーマをどう扱っているかや、「最後の晩(ばん)餐(さん)」など聖書中の食のシーンが描かれた名画の話、食とエコロジー、地球環境論も交え講義をする。「食べる」ことの裏側に隠れている「死」についても考える。

 例えば、日本の大ルネサンス人千利休は「わび茶」の大成者だが、お茶というのは総合芸術で、「もてなし」の芸術だ。茶室という不思議空間の中で料理を食べたりお酒を飲んだり、客と主人が打ち解けて掛け軸の書を見たり花入れのツバキをめでたりしてお茶を飲む、コミュニケーションのゲームだ。

 お茶の味ばかりか、和菓子、茶わんやお茶を入れる道具もアートやデザインとして眺めて触って楽しむ。最終的には人と人が「仲良くなって」快い時間を楽しむ。まさしくこれが五感の芸術、生活を彩る総合芸術だった日本のアート本来の姿である。

 僕が目指すミュージアムの最終形は、こういうお茶が持っている「五感」や「総合芸術性=出会い」をフルに展開した、21世紀のアートの楽しみの場だ。翻って、ミュージアムは日本にもその起源があるとはいえ、やはり近代欧州がつくってきたものを移入して学んだものだ。ただ、専門性が特化するあまり美術は美術、音楽は音楽、詩や小説も別物、ダンスやオペラは劇場で―と互いのジャンルが交わらなくなったし、それらを「掛け合わせて」味わおうという意欲も少ない。ましてや、食べる飲む楽しみと美術をどうやって「結び付けたらいいの?」という感じだ。

 僕は学生に「絵を見たらまず、体に感じた気配や雰囲気を好きな食べ物に置き換えて説明してみよう」と投げ掛ける。そこで、僕の大好きな多色のポリフォニー交響楽の絵を描き、画面がざらついて不思議な「触覚」がある日田の名匠宇治山哲平さんの気配を、カフェのメニューでは「多種類出会い系チャーハン」で置き換えてみたわけである。

 発想の出どころは、京都の洋食店「グリル子宝」の「牛コマ、豚コマ」多重エキスのチャーハンだ。わが家ではそれをまねて「大分どんこ」で作っているが、それをさらに梯さんがイタリアンの得意技「塩豚パンチェッタ」を加えてアレンジしてくれた。

 オープン展でモンドリアン(オランダ)VS宇治山哲平の共に近代を代表する「瞑(めい)想(そう)絵画」の対決を披露するが、僕はその向こうに、21世紀的「宇治山チャーハン」とモンドリアン作品からイメージを膨らませた「ニシンの酢漬け」の対決を夢見ている。

 そして「東西巨匠の対決」とは、本当は長く別れ別れになっていた恋人同士のユーラシアを超えた「大分での」出会いを意味する。つまり新美術館は「愛のミュージアム」となるのだ。


新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成27年2月23日朝刊掲載