文字のサイズ
色変更
白
黒
青

OPAMブログ

印刷用ページ

大分のアート立国、文化リテラシー物語  その七

寄稿 2013.11.18

 美術館が高尚すぎて、つまらないという人が多くいる。だがその中には、少しくうそがある。

 つまらないというのは、その人の判断だろうが、高尚すぎてというのは、おそらくその人の偏見か先入観だろう。もっというと、なぜつまらないと感じるかというと、その答えは簡単で、美術館は娯楽施設といっていいのに、その楽しみ方について詳しくは教えてくれないからである。

 人はマニュアルや作法=リテラシーが、よく分かっているものに、安心して近づくし、そうでないものを敬遠する。美術館というのは、娯楽施設なんだけれど、その娯楽自体を自分で感じたり考えたりして、探さないといけない、ルールから自分でつくってゆくゲームのようなものだ。

 だから美術館で、時に人は、というかある種の人は、放り出された感じがして、戸惑い、やがてこんな高尚で、お高くとまっているものに付き合うのは御免だと思う。
 だが翻って、人間に生き方死に方を、本当の意味で教えられるだろうか。そしてそんなもの、他人に教えてもらって、ハイそうですかと素直に聞く人従う人が、いったいいるだろうか。

 アートは楽しいもの、理屈抜きで、身体全体で感じるものだが、その奥底は人間の生そのもの、生き方死に方に深くつながっている。

 実は多くの美術館が嫌いな人にも、それは直感で感じ取られていて、それが実は「高尚」ということとすり替えられているだけだ。
 変な聞き方だが、また余計なお世話的なことでもあるだろうが、じゃあ、あなたは自分および人間の、生き方死に方に全く興味がないのか。

 学校の教科でもそうであって、美術というのは他の学科科目の勉強とは、全く一線を画する。
 ステップを踏んで、目標を決めて、練習してゆくものでもないし(場合によってはあるだろうが)、また他の科目のように、容易に誰にでも分かりやすく、「良い、悪い」が点数付けられないものだ(場合によってはあるだろうが)。

 だから隣の人、教室の皆と全く違っていても、何ら叱られないし、それはそのこと「人と違っていること」=自分だけの掛け替えのない、自分自身であることそのもので、十分褒められるに値する。芸術の基本的性格である「自由」が、ここに厳然とあるからだ。

 「人と違って良いんだ、逆に褒められるんだ」というのは、日本の社会が小さな頃から人間に教え、そうなれと諭し、強いて来たものとは全く正反対、逆の状態である。
 人は社会的動物であるので、中高生あるいは小学生でも「こうこう、こういう人であるべき」という社会的規範や因習、慣習にがんじがらめになっている。

 こういう押し付けられ状態が続くと、誰でも今度は乱暴にいうと「やってられないよ」状態になりがちで、そういう鬱屈が子供の頃から、既に皆にある。
 社会的動物であるので当然なんだが、この血のよどみを、ラテン語でスタシスというと教えてくれたのは畏友のKだった。

 アートの目的はいくつかあるが、その一つはこの社会に生きている動物として必然的に付きまとう血のよどみの外へ抜け出る=エクスこととKはいう。
 そして宇宙や自然生命と一体になった「私は今、まさに生きているぞ」という生の実感、高揚を体験することである。これが英語のエクスタシーの語源であるのは、もういうまでもないだろう。

 だから美術館が、観客一人一人に強いるのは(というか問い掛けるのは)、実は「他の誰でもない、あなた自身である」という、もっとも単純で、もっとも深い問いなのである。

 英語で「ビー・ユアセルフ=あなた自身であれ」という、この美的な問い掛けがミュージアムそのものだといえば、大分県ではどれくらいの人が美術館に、ある時は喜び勇んで、ある時は悩み苦しみながら、あるいは落胆して肩を落としながらも、それでも足を運んでくれるだろうか。

 極端にいうと、美術館に来て、絵を1枚も見なくても、それはその人なりにミュージアムを楽しんだことになる場合もある。人のことを気にする必要は、ここでは全くない。

 新見 隆(にいみ りゅう)
 県立美術館長
 武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成25年11月18日朝刊掲載